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毎日新聞の2011年4月30日の余禄に次のような記事がありました。

 

 震災後しばらくして一本の電話が小欄にかかった。

 

 「村長が被災した知的障害のある子どもを助けたい、と」。

 

 電話の主は岡山県倉敷市郊外の「たけのこ村」の万年やりくり助役、藤岡博昭さん(83)だ。

 

 ともすれば被災地で埋もれがちな側面に気づかせてくれた


 地図にない村は、中学校で養護学級を担当していた藤岡さんが34年前、「一杯の水を与えられるよりも、自分たちで井戸を掘ろう」と教職を辞め知的障害者の自立を目指して開いた。


 障害者と健常者が励ましあって畑を耕し、備前焼や埴輪(はにわ)を制作して自給自足している

 

 開村のきっかけはドルショックに石油ショックが重なり、「能率が悪い」と、はがき一枚の通告で教え子たちが次々と勤め先を解雇されたことに始まる。

 

 災厄で真っ先にしわ寄せを受けるのは、こうした弱者である

 

 「大震災でお父さん、お母さんがなくなられた人。ぼくたちのたけのこ村へ来てください」。

 

 障害のある藤枝一朗村長(40)の呼びかけを小紙の「希望新聞」が伝えている。

 

 藤岡さんは希望があれば、いつでも迎えに行くつもりだ

 

 東日本大震災から50日。先の見えない過酷な避難所の生活だ。

 

 とりわけ、障害者やお年寄り、子どもなど災害弱者に寄り添いたい。


 「ろうそくの小さな炎に手をかざし風を和らげ炎がゆっくりと大きくなるのを見守るように」。


 被災地を歩いた精神科医の野田正彰さんが共感の大切さを説いている


 たけのこ村の村民は竹の子が硬い土を突き破って伸びるように生きてきた。


 そのたくましさは根っこでしっかりつながっているからに違いない。

 

 村の電話は086・426・0820。

 

 

 上の希望新聞の記事というのは、2011年4月11日の希望新聞 の がんばろう というコーナーの記事です。

 希望新聞:東日本大震災 がんばろう

 ●岡山県倉敷市のNPO法人「たけのこ村」助役の藤岡博昭さん(83)

 

 たけのこ村は障害者と健常者が農業をし、陶芸をしながら共同生活を送る村です。

 

 「一杯の水を与えられるより井戸を掘ろう」と公的な援助に頼らず、自立を目指しています。

 

 東日本大震災の状況がテレビで流れたとき、知的障害を持つ藤枝一朗村長(40)が「助けたい」と言いました。

 

 今まで自分たちが障害者としてつらい思いをしてきたからだと思います。

 

 災害時に障害者への援助は後回しになりがちです。

 

 藤枝村長は被災地の障害者に向け「大震災でお父さん、お母さんがなくなられた人。 ぼくたちのたけのこ村へ来てください」と呼びかけています。

 

 希望者がいれば現地に迎えにいきます。

 

 たけのこ村電話086・426・0820か電話086・523・5840まで連絡をください。

 

 この記事を読んで感動したと同時に、「障害のある藤枝一朗村長(40)の」 という表現に、何のことだろう?と思いもう少し詳しく知りたいと思いました。


 

 そして、調べてみると藤岡博昭さんの著書があることが分かり、例によって図書館で調べると、お隣の入間市の本館に1冊蔵書があるという事が分かり、午後出かけて行って借りてきました。

 

 その本が『やったらできた 「たけのこ村」貧乏奮戦記』 藤岡博昭 講談社 です。

 

 藤岡さんはもと中学校の先生です。

 

 3回目に勤務した広島県呉市立広中央中学校で社会科をおしえていた時校長から、特殊学級の担任になってくれ(今では養護教諭というのだろう…)と頼まれます。

 

 自分に頼みに来る前に、3人の先生に断られ、「引き受けてくれれば、管理職になる手助けをする」とい.われ、反発して一度は断るのですが、家に帰って妻に相談すると、「あなたが断ったら知恵おくれの子たちはどうなるのですか。その子たちのために引き受けなさい。」と励まされて、担任を引き受けます。

 

 一度も経験のないところから、手探りの状態で初めて、様々な工夫ののちに、次第に保護者からも信頼されてゆき、子供にも様々な生きる力をつけていきます。そのなかに泥遊びに熱中する様子から、始めた埴輪づくりが一つの成果となって子供たちの自信になります。そして生徒たちは3年ののち卒業して次々に就職していきます。

 

 その就職先は、おもに呉市内の造船関係の中小企業、自動車のマツダの関連下請け会社でした。生徒たちは、何時も明るく、あいさつもちゃんとでき、礼儀正しい。障害者ゆえに能率は今一つであるが、与えられた仕事は一生懸命やるし、無遅刻無欠勤。そしてウソをいわず、ごまかさない。という人間性が評価され職場の人たちに理解され、可愛がられます。

 

 ところが、上の新聞記事にある通り、昭和46年のドル・ショック、そして昭和49年のオイル・ショックの時にハガキ一枚で、生徒が、次々に解雇されていきます。

 

 当然労働基準局に訴えてたたかいますが、結局は私企業ゆえ利潤追求のためには、能率が悪い者は切り捨てる、という論理で解雇されてしまいます。


 その後色々な企業を訪ねて行って、障害者を雇ってくれるように頼むのですが、壁は厚くどうしてもうまくいきません、そうこうするうちに仕事を失った子供が、ひまをもてあまし、人間関係が乏しいゆえに盛り場をうろつくようになり、パチンコや飲み屋通いを始めるものも出てくる。そして非行に走るものも出てきてしまう。


 追い詰められた藤岡さんたちは、せっぱつまり、ついに障害を持つ卒業生のために、クビにならず、馬鹿扱いされない、安心して働ける場を自分たちで作る決心をして、他の3人の特殊学級の担任の同僚に 声をかける。

 

 ところが当然のことながら、当初賛成してくれた同僚も、家族の賛成が得られず、結局藤岡さん一人となってしまいます。

 

 その藤岡さんも、当時大学、高校、中学に通う3人の子供がいて、妻の猛反対にあいます、しかしもうあとに引けなくなった藤岡さんは、家族には今の家を売ってそのお金で子供の教育費に充ててもらい、自分は退職金を障害を持つ子どもたちのために使わせてほしいといって、施設を作ることを強引に始めてしまう。

 

 奥さんはこのときのことを振り返って次のように述べています。

 

 以下長くなりますが、引用します。

 

 「特殊学級を持たないか」と校長先生から言われたと、ある日、夫は私にポツンといいました。38年の事でした。特殊学級と聞いても、どういう学級なのか、担任になることが、何を意味するのか、私にはまったく分かりません。しかも、数人の先生に断られたあげく、夫のところへまわってきたというのですから話になりません。一言のもとに反対しました。

 

 夫も大変不安そうでしたので、当然お断りしているものとばかり思っていましたが、それもできず、悩みつづけているようすでした。苦しんでいる夫を前にして、私も放っておけず、特殊学級というものはどういうものなのか話をききました。知恵おくれの人たちの問題を真剣に考え始めたのは、このとき以来です。

 

 「次々と先生に断られたら、特殊学級の生徒はどうなるのか」

 

 家庭にいる私は、学校の事情などわからぬままに義憤にかられ、お節介にも同情してしまったのです。もっとも、この同情というものが、といもいけないことである事が、、たけのこ村にきてからわかりました。それは、ともかく、困っておられる校長先生に安心していただくということもあって、つい担任になることを勧めたのでした。

 

 その瞬間、運命の天秤棒の片方を落とさぬように夫について、ひた走りに走り、ここまできたように思います

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